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海上氏の滅亡

●5月5日の節句をやらない家がある理由。

 

 鎌倉時代から戦国時代の終わりまで、千葉県の下総・上総の国のほとんどは、千葉氏の

領域であった。銚子も、千葉氏の海上氏の支配する地域だった。その支配が終わるのが、

秀吉の小田原征伐である。

 

天正18年(1590年)

  4月1 5 ・ 1 6日秀吉軍小田原城攻撃開始。

  同時期、浅野長吉・木村重成ら江戸川を渡り、下総の千葉氏の城の攻撃を始める。

  千葉氏や関東の武士たちは、戦いの流儀として昼間しか戦わなかった。

 このとき、浅野長吉らは、それもできるだけ早く千葉氏の城を鎮圧したかったので、昼

夜を問わず、焼き討ちでどんどん東や南に攻めていった。

 千葉氏の男は、15歳から60歳までの者は、北条氏の要請で、つまり全ての男は、小

田原城に入っていた。残るのは、女や子供のみ。

 東庄や銚子まで来るのは、あっという間であった。小見川の東氏の城山や森山城は、男

たちのいない女子供ばかりの城が焼き討ちのあい、燃えて煙が立ち上るまもなくであった。

 5月5日の節句の準備をしていた東庄の東氏や海上氏の城(館)も焼き討ちに遭い、女

子供は全て殺され、断末魔が聞こえる声が鳴り止まぬまもなく近くの城も攻められた。銚

子の城までも、あっという間に攻められた。

  5月5日には、下総小金城(松戸市)上総土気城(千葉市)東金城(東金市)も攻め

られ開城。  10日、下総臼井城(佐倉市)・千葉氏の本城の佐倉城も開城した。

 千葉城は、博物館を作るための発掘調査をした際、多くの鎧を着た武士の亡骸が見つか

った。この時の交戦の後と思われ、現在、千葉城には社を作り葬らっている。

  たぶん、5月の上旬には、銚子までに達していたと思われる。

  急ぎであったので、攻められず目こぼしの城もあった。

 7月7日 小田原城落城後、小田原衆城を出て、地元に帰る。武士をやめ百姓を専念す

ることを約束する。地元にかえると女・子供が亡くなっていた。城も焼け落ちている様子

を見、悲しみのあまり城の近くから離れ、他の土地に移り住む者が多かった。

 一族の女子供が殺された場所には、焼け落ちた場所でもあり、再び同じ所には住もうと

は思わなかった。また、全て武士から百姓に位を落とされたため、山の上よりも、田畑に

近い場所に住むようになったためもある。千葉氏の末裔、「月星紋」や「九曜紋」の家が

城跡の近くに住んでいない。城の館跡の近くに一族が住んでいる所は、攻められずに済ん

でいた場所と考えてもよいようである。

 10月には、鹿島神宮で、秀吉方の戦勝記念の行事が執り行われた。

 

 東庄の家などでは、女子供が殺されたとして、今でも5月5日の節句をやらない家があ

るのである。

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