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千人塚 日本最大級の海難事故

1 9 1 0年(明治43年)                    

 3月12日、俗に言う「2月遭難」

 突然の暴風雪により、出漁中の漁船82隻、乗組員1054人が遭難。溺死者13人、

 行方不明者314人

 

 銚子最大の海難事故。亡くなった方は、千人塚に葬られ、大きな碑が3つ以上確認できる。

明治43年の初めての出航であったので、漁船は全て大漁旗で飾られ、舟神様の祭壇を飾り、初めての漁を今か今かと待っていた。

そして3月12日、風もやみ、上天気。犬吠埼の見張り台より、大量の魚の群れを確認し銚子漁港は活気付き、また、飯岡の港も出港準備をし、大漁節の3番「皆一同にまね(大漁旗)をあげ、(なびかせ)」、家族が川口で見守る中、今年初めての漁に出発する。この時、都合で銚子港から出港出来なかった舟は2隻。対岸の波崎の舟は、銚子大橋の挟の神社の祭礼のため、出港できなかった。波崎の漁師は、銚子から舟が一斉にでるのを悔しがって見ていたという。

 一斉に舟が出たとき、1隻だけ、前に大きな亀がたちふさがり出ることができず港にもどり、銚子の舟は、この1隻を含め3隻だけ生き残ることになる。

 川口神社前を舟が通る時は、全員出て川口神社に手を合わせ、無事な漁を神に祈り、川口から海に出ようとした。

 舟が川口から海の出たときを合図したように、そのとき、突然大風が吹き、雪交じりの雨が急に降り始め、海が荒れ出した。

 あれよあれよと言う間もなく、1隻、また1隻と舟が沈みはじめた。

 この時、出航した銚子の舟は全て、家族が見守る中、沈んでいった。

 飯岡の舟も全く同じ状況で、全て沈み、全滅状態であった。

 千人塚あたりで見ていた家族の、怒号や叫び声が川口に響き渡った。

 

 300人以上の行方不明者があった。

 数日間で、一人また一人と、外川方面から土左衛門(溺死者)として、遺体が上がった。

 遺体が2〜3倍にふくれあがり、入れ墨から身元が分かった者は数少なく、若者ほど入れ墨がなく身元が分からなかった。

 ある25歳で舟に乗り、行方不明になった家族の夢枕に、明日、外川に3体上がる内の一つが自分だと、夢枕に立った。

 翌日行ってみると、確かに3体上がっていた。どれか分からなかったので、言い伝えにより、手の指を少し切って、遺体に垂らし、しみこむ者を自分の肉親と思い、一体だけしみこんだので、受け取り大八車に乗せ運んだ。それでも、はっきりとしたのではないので、千人塚に運び、荼毘にふして、何人かと一緒にお坊さんに拝んでもらい、遺骨を千人塚に埋め、石碑に名前を刻んで立てた。

 

 現在、銚子の漁船や漁をやる人が少ない理由は、このときの遭難が大きいと言われている。

 波崎の神社が自分たちは守ってくれたとして、それからは祭礼を1日増やし盛大に行う

ようになったという。

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